医学部受験で小論文・面接試験が課される「真」の理由⑰

帝京大学医学部の一般選抜における試験内容の変遷

前回は帝京大学医学部の一般選抜における試験内容の変遷にも注目しつつ話を進めていく事を予告して終了しているが、ここ20年超を考えても論ずる程の変遷はないというのが実情なのである。「いきなりの肩透かしか?」と思われる読者の方も少なくはないかと思うが、前回も触れた通り、3科目の自由選択から英語必須かつその他2科目の自由選択になったというのが最大の変更点であり、細かく見れば国語以外の科目内での選択問題がなくなり、続いて唯一選択の余地を残していた国語についても、古文・漢文の選択が不可能となり現代文のみ必須回答になるといった変更もあったが、科目内の選択問題はかなりの実力を具えた受験生であっても、解くのに時間は掛かる反面確実に満点乃至は満点近く得点出来る問題を解答すべきか、或いは解くのに余り時間は掛からないものの一定の失点のリスクを甘受せねばならない問題を解答すべきかといった、言わば「究極の選択」を迫られる場面も少なくなかった上に、ボーダーラインの高さをも考慮すると如何に素の学力が高かろうとも結果としての「問題の選択ミス」が重なれば合格が極めて難しくなるといった、他の医学部の入試とは異次元と評しても過言ではない過酷な勝負をも戦い抜かねばならなかった事を考慮に入れれば、科目内での選択問題がなくなった事は多くの受験生にとっては歓迎すべき変更であったと言えよう。もっとも、帝京大の古文・漢文の問題は、バランスの取れた出題であったのは勿論、内容的にも味わいのある文章が題材となっている事も少なくなかったので、もう新たな出題を見られないのは私の様なおっさんにとっては残念である事は言うまでもないが、医者が古文や漢文を読みこなせても世間一般では何の役にも立たないと考えられている(それ程単純なものではない様に思われるが)為、ここでこれ以上この話を続けるのは少々不本意ながら止める事にしたいと思う。

「究極の選択」が指す意味

それにしても真摯に医学部を志す皆さんが「究極の選択」という言葉を聞いた時に真っ先に思い起こすのはどの様な事物であろうか? 勿論何を思いつくのも個人の自由なのだが、日夜小論文・面接対策に取り組んでいるであろう皆さんが一番に思い浮かべるべきは「トリアージ」ではないだろうか。今更説明するまでもないであろうが、トリアージとは災害発生時等に多数の疾病者が発生した場合、利用可能な医療資源に応じて治療の優先度を決定する事である。ただ利用可能な医療資源が特に限定されている際には、重症度が高く回復の見込みのない疾病者は一切治療を受ける事が出来ず、そのまま息を引き取るという、一見倫理的には受け入れがたい結果を生ずる事もあるが、限られた医療資源を最大限活用して一人でも多くの疾病者の命を救う為には正しい態度であると考えられている。これと同様に限られた時間という名の資源を最大限活用して、可能な限りの高得点をもぎ取りに行く方策を、ある種の直観をも根拠として絶えず考え続けるというのが、嘗ての選択問題を多数含んでいた帝京大医学部入試の理念であったと評する事も出来るのではないだろうか。近年は西方の某公立医学部でトリアージを冠した入試が課されているのもまた、私の推論が間違いではない事を裏付けている様に思われるが、この様に感じるのも決して私の一人よがりではないのであろう。
勿論医学部進学者の大多数が、将来は咄嗟の判断力がこの上なく要求される救急等の診療科の医師になる訳ではないのだから、受験生全員にトリアージを彷彿とされる選抜を課す必要性もないのだと言えよう。実際先述した西方の公立医学部でも、トリアージ方式ではないごく一般的な学科試験を課す選抜方式も存在するという事実も私の考えを裏付けているのかもしれないが、科目内の選択問題が消失した今でも尚、医学部が学生に求める資質を最大限引き出す可能性を秘めているのが、帝京大学医学部の入試であると評価出来るのではないだろうか。特に帝京大学医学部と深い関わりのある方には凡そ推測がつく話かもしれないが、その様な方には答え合わせを待つつもりで次回を待ってもらえれば、筆者にとっては望外の喜びである。(続く)

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