医学部受験で小論文・面接試験が課される「真」の理由⑳

「若い時の苦労は買ってでもせよ」という言葉について

私の嫌いな言葉の1つに「若い時の苦労は買ってでもせよ」というのがある。何故この言葉を私が嫌うかと言えば、この論理に則るとすると、結局の所人間もせいぜいで試行錯誤的な学習しか出来ず、自分で経験した事しか身に付けられないかの様な印象を与えるからである。しかも苦労という言葉も専らネガティブな含意を持つ単語であり、どれ程の労力やストレスを人に強いる物理的或いは心理的活動であっても、それが本人にとってその時点で心の底から欲するものであったり、そこまで前向きな感情を抱けなかったとしても、予見可能な少し先の未来を考慮した際に、その活動の経験を有している方が望ましいと考えたりするのであれば、傍観者からすれば苦労の様に見える行為であろうとも、本人にとってはそれは決して苦労ではない筈なのである。そういった視点も具えぬまま、一律に苦労の薦めを説くのであれば、最早特異な嗜好を礼賛しているとしか評価せざるを得なくなり、この様な訳の分からない先人の言葉が存在するからこそ、知能を有したホモ・サピエンスに相応しく、これまでの自分には殆ど関係のない事物についてであろうとも、それを知の高みから見渡す事により、最初から合理的な行動を何時でも取れる様にしたいものだと心の底から願っているのは、決して私一人ではないであろうし、特に以前から書いている通り救急医療等の、多忙を極める診療科の現場ともなれば、試行錯誤的な行動を重ねるのみではすぐに対応が困難となってしまう事は誰の目にも明らかであろう。
そして若い時だけ試行錯誤(これを苦労と読み替える事にしたいと思うが)を重ねる事等、事実上不可能なので、働き盛りになっても、また老年期を迎えようとも試行錯誤を重視する姿勢から抜け出す事が出来ず、何事もなし得ぬまま、人生の終焉を迎える事さえも十分にあり得ると考えられる。従って人生の如何なるフェイズであれ、しなくても良い苦労は可能な限り避けて、霊長類に固有と言える高度な知能を駆使して、合理的に行動すべきである事は論を待たないのであるが、人生には幸か不幸か自分で経験しなければ分からない事、或いは経験した当人から直接聞かなかれば分からない事もあるのだという事もまた一面の真理であると言わざるを得ない。その様な事を私に教えてくれたのは、他でもない帝京大医学部であった。

帝京大医学部の不思議な入試科目の構成

前回も少々述べた通り、医学部には縁もゆかりもなかった高校生から一浪生の頃は、帝京大医学部の不思議な入試科目の構成に首を傾げるばかりで、その真意に近づく事は決してなかったのであるが、20代半ばにして帝京大ではない医学部に入学し、自身が一般的な医学部のカリキュラムに沿って勉強するにつれて、嘗ては見えなかった真意が朧気ながら姿を現し始める事となったのである。勿論この頃の私も基本姿勢は高校生の頃や高校を卒業したばかりの頃と大して変わってはおらず、医学部のハードな学習に堪えうる、広範かつそれなりに深みのある知識を身に付けておく事こそが至上命題であり、1つの科目へのずば抜けた才能を要求する、理学部等の純然たる研究志向の学部・学科(勿論こういった性格の学部・学科であろうとも、極端な偏りを放置したままにしておくと、後々の人生で大きな代償を払う結果になるのは言うまでもないが)であればまだしも、全人的な能力を要求される医師の養成を主な目的とする医学部の入試において、科目数を削る等言語道断だと考えていたが、医学部での学習を進めていくとこの考え方も自ずと変容していく事となった。これも前に述べた通りだが、医学部での学習では、高校までの主要5教科の内容とは必ずしも直結しない様々な能力が要求される事になるので、主要5教科の能力を試しただけでは医学部における学習への適性を見極めるには余りにも不十分であるし、かと言って思いつく限りの医学生としての適性を試す審査項目を追加したのでは、入試の実施に莫大な労力を要する上に、現状でも多浪や再受験を経て医学部に入る学生が少なくないのであるから、更に入学までの年月を引き延ばす結果にも繋がり兼ねず、とても現実的とは言えないのである。そこで思い出されるのが、ある意味極限まで入試科目数を絞り込んだ、帝京大医学部の入試である。次回は実際に関わった帝京大医学部の学生の方々の言葉を思い起こしつつ、敢えて少数の科目で入学者選抜を行う意義について考察していきたいと思う。(続く)

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